| 平野の起源 |
平野の起源は悠久で、上古この地に住まわれた日本武尊の御孫杙俣長日子王の御名に因んで、「くまたの荘」と称したと伝えられる。
後、このあたりに帰化人が多く移り住みつき、式内赤留比売神社を祭祀した。(現、三十歩神社)
平安時代のころ、征夷大将軍坂上田村麻の子広野麻がこの地を朝廷より賜り、社を建て氏神として牛頭天王を祭ると共に、菩提所修楽寺を建て神仏の冥護を祈った。以来、広野麿の子孫が永く当地を掌り、住人も亦、之に心服して「くまた」を改めて「広野の荘」と称し、何時の程か「平野」に転訛したという。 |
| 七名家 |
又、坂上家の庶流に則光、末吉、成安、徳成、三上、土橋、辻葩があって七名家と称し、当荘を野堂、流、市、背戸口、西脇、泥堂、馬場の七字に分け、各その一を治めると共に、よく宗家を輔けた。
これより先、広野麿の女春子(桓武天皇妃)が建立した長宝寺は、代々坂上家の娘が住持となったので、事実上の菩提寺となり先の修楽寺は次第に荒廃した。
平安朝の中頃、藤原頼通が宇治の平等院を興し、豊穣なこの地を荘園とし坂上家を領家とした。 |
| 大念仏寺創建 |
院生時代、崇徳天皇の大治二年(1127)鳥羽上皇が、融通念仏宗の祖良忍上人に命じてこの地に、大念仏寺を創建せしめて、一宗の総本山念仏の道場と定められた。後白河天皇の時保元元年(1156)鳥羽上皇崩御の後、寺内に霊明殿を建てて上皇のご尊牌を奉安した。 |
| 権現社 |
源平抗争の頃、熊野信仰が盛んとなり、都から貴人や顕臣が紀州熊野へと詣でた。牛頭天王を祀る氏神社はこの時から熊野権現を併せ祀ることとなった。後年南北朝の初め、当地が南朝に属していたので、後醍醐天皇から熊野三所権現のご宸筆の勅額を賜った。
鎌倉時代、後鳥羽上皇の建久元年(1190)当荘は伊勢内宮の工作料を賦課せられ、同三年に長宝寺の銅鐘を鋳造せられた。
後醍醐天皇の頃、元享元年(1321)融通念仏宗第七世法明上人は、宗門甚だしく衰微し寺門荒廃したことを嘆き、之を中興し宗門を旧に復した。 |
| 戦国時代の平野 |
足利氏の内訌に端を発した応仁の大乱で中央の権威は全く失墜し、群雄が各地に割拠して弱肉強食の戦国時代が百年余も続き、大小名の抗争の兵火は絶えず、群盗が横行し天下騒乱の時代に於いて、二重の環濠に拠って自衛に努めたとはいえ、迫ってくる強大な圧力の間にあって、当地の指導者坂上家を擁する七名家は、人命と財産の保全に住民と力を合せ、並々ならぬ苦労を重ねたことだろう。
天文三年(1534)には、三好長慶の、次いで松永久秀の領有となり、天正六年(1578)には織田信長の所領となって、末吉勘兵衛利方が代官を命ぜられ、平野郷の支配を行うこととなった。この戦国動乱の中にあって、当時連歌流行の一般風潮を受けて、平野でも盛んに連歌会が催され現在杭全神社境内にある連歌所が中心となった。騒然たる世情の中にあっても尚、文化を大切にした先人の心のゆとりが偲ばれる。 |
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| 末吉勘兵衛利方 |
末吉勘兵衛利方は廻船業を営み、販路を遠く北陸、奥羽地方に拡めたが、後豊臣秀吉に仕え再び代官となり、秀吉は当荘を大政所高台院領とすると共に、一族の出納の事を与らしめた。勘兵衛は大阪城近く居を構え出仕の便のため橋をかけた。末吉橋と名づけ今日も尚その名を留めている。 |
| 大坂の陣と平野 |
大坂の陣が起こると、摂津市内の要衝に位する当地は両軍争奪の激戦場となった。勘兵衛の子末吉孫左衛門吉康は一族を集めて徳川方に加勢したので、大阪方の忌諱に触れ一郷悉く焼払われた。秀忠は暫く此処に軍官を置いた。戦後吉康は功により平野河内の代官となり、叔父平野正次は喜連村の代官に任ぜられた。 |
| 銀座の開設 |
関ヶ原戦後、徳川家康は勘兵衛に旧領地の所有権を認める朱印状を与えた。利方は家康に説いて銀座を起こし(慶長六年五月、1601)弟の平野正次と共にその頭領となった。銀座は当初伏見に設けられ、古くから銀貨を鋳造していた大黒左兵衛常是が座人となり、銀貨には常是の極印を打った。後江戸に移り、今日東京にその名を留めることになった。世界的にも著名な東京の銀座の起源が、わが平野の先人によって出来たことを知る人は少ない。 |
| 末吉船 |
吉康とその子長方は、渡海朱印状を得て船を遠く安南、シャムに航し、江戸、長崎を拠点として海外貿易に従事した。雄図万里、南支那海の波涛を蹴って「末吉」の船印を高く揚げた、わが郷土の先輩の雄姿を想像するさえ愉快である。「末吉船」として長く歴史に名を残している。 |
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| 柏原船 |
又、長方は柏原船を創設した。徳川時代から明治期に至る迄、柏原と大坂の間を、平野川筋を上下した貨物船で、初め寛永十三年(1636)荒地開発などを目的としたが一時は大変繁盛したこともある。その後、川床が荒廃したこともあり、明治になって関西線が開通して汽車輸送が始まると全く省みられなくなったが、相当長期間河内方面との物資の輸送に大きい貢献をした。
平野正次は安井道頓と力をあわせて、大阪の道頓堀川を開さくした。 |
徳川時代の
平野の統治 |
徳川時代は、元禄六年(1694)を中心として前後二期に分け、前期を天領、後期は藩領となった。天領期は代官を置いて統治し、吉康の子孫が之に任ぜられたが、貞享以後は他姓が任命された。藩領期は時に異動があったが、中頃から下総国古河藩に属し、本多中務大輔、土井大炊頭を藩主とする藩政は、地頭が統治し中頃から陣屋を此処に設けた。その下に惣会所、町会所の自治機関があって、惣会所は陣屋に直属し町会所を督令した。惣年寄は此処に詰めた。惣年寄には七名家の者がなることを原則とした。町会所は庶人を治め、町年寄が之に詰め町内徳望の者が世襲した。 |
| 平野人気質 |
自由都市として泉州堺の町と同じく、自治の精神に富む住民は、絶えず世情の変化や進展に機敏に対応し、賢明に対処して、自由に各の仕事を伸ばし続けて当地の産業の発達に努力した。
徳川時代に於いて特筆すべきことは、町名改正と含翆堂の建設である。元禄十五年平野荘を平野郷町と改め、以後大正に至った。含翆堂については本書史跡の項に詳述したので省略する。 |
| 明治の改革 |
明治維新は各方面に改革を促した。熊野権現社は杭全神社と改称し、旧来の牛頭天王を本社とし、遂に神宮社は取毀された。又行政上大阪府住吉郡に属し、後東成郡に変わった。明治二十二年町制を実施した。 |
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こうして時代を追って、大まかではあるが平野のあゆみを眺めると、実に千数百年の久しい間にわたって、文武商工業及び貿易等の発展につくし、その成果は寔に顕著なものがある。時には兵火の侵すこともあったが、、反って新しい町づくりを実行して、前にも増して発展を遂げる逞しい生活力を発揮した。そして如何なる難局に際しても、宗家坂上家を中心とした政教一致の社会組織を持ったことは、社会制度史上最も注目に値する。 |